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まさこさんが最近登録した自分史(更新順)

  • 右腕脱臼骨折(1998年1月10日|61歳)

    長野県で冬季オリンピックが開催される年です。

    お正月早々、スポーツクラブ内で階段を1段踏み外して転び、右手をおもいっきりドアにぶつけて右肩を外してしまいました。

    猛烈に激痛がはしり、私の右肩は顎のところまで来ていました。
    肩を見ると腕が見えず、衣紋かけの端のような肩の骨の形が見えていました。

    水着を着ていたので水着は鋏で切って脱がしてもらい、洋服に着替えて救急車で病院に搬送されました。見ていた人は後で「紙のような真っ白な顔をして冷や汗をかいていた」と言っていました。


    クラブの事務職の人に応急処置をしてもらい、
    救急車に乗ると救急部員が私に右手を広げたり閉じたりさせ骨折はしていないようだからと言い、
    「頭を打たなくてよかったですね」と慰めてくれました。

    救急部員からの連絡で病院では看護婦さんが数人出てきて、先ずレントゲン写真を撮り、ベットの上に寝かされました。
    外科の先生が私の顔の上に立ってまたがり、私の顔の真上は先生のお尻が見えます。
    看護婦さんがそばに来て「力をぬいてリラックスしなさい」と言い、

    先生は私の右腕を持ちギアを引くようにすると大きな音がしたのです。
    周りにいた看護婦達は、いっせいに「きれいな音がしたのでしっかりとはまったわ」いいました。

    見事に入ったのか脱臼は癖になると聞いていましたが、今まで一回も外れたことはありません。

    更新日:2009年12月3日コメントする(0)

  • 長野パラリンピック冬季競技大会(1998年3月5日|61歳)
    まさこ

    1998年3月5日 アジアで初めてパラリンピック冬季競技大会が開催されました。32ヵ国、1,146人の選手が参加しました。

    1月10に右腕を脱臼してから動きもよくなり、パラリンピックで何かお手伝いすることがないかと、聞いてみるとオリンピック村でのボランティアがあるとの事で申し込みをして手伝いすることになりました。
    食堂の中のテーブルを綺麗に拭いたり、使った後の椅子を整えたりする仕事でした。障害のある人たちですが競技に参加する人たちだけあって、自立心が強く、ビュフェ スタイルの食堂で、目の見えない人(一緒に国から手伝いに来ている)以外は自分でトレーにとり食事を整えていました。

    他に何かお手伝いすることがないかと気を配ったのですが何もないのです。車椅子の人には椅子が邪魔になると思ってはずしておくと、それは必要だからと言われ、車椅子から椅子に移り食事をしていたのには感心しました。
    皆さんが食べ終わった後にボランティアの人たちも食べることが出来、種類が豊富で美味しかったことが印象に残っています。


    ボランティアをしていたので競技場へは行くことは出来なかったのですが、テレビの録画で、「人はみんな一緒です。障害は一つの個性です。生きる勇気と感動を与えました」の言葉がいつまでも忘れません。
    長野の10日間のパラリンピック大会でした。

    更新日:2009年4月24日コメントする(0)

  • 水泳を習う(1998年7月|61歳)
    まさこ

    一月に右肩脱臼してから半年が過ぎても右腕の動きが悪く真上まで手が上がらないので水泳を習うことにする。
    初心者コースで体を浮かせることから始まる。初めて体が浮いた時の喜び、バタ足で少し前に進み、少しずつ出来てくると、嬉しくてしょうがない。毎日プールに漬かり練習をした。
    初めて25メートル泳げた時は周りで見ていた人が拍手喝采。クロールが出来ると、平泳ぎ、背泳ぎとバタフライと習う。バタフライはいまだに息継ぎが下手で苦しく長く続かない。約1年でクロール1000m続けて35分から40分以内で泳げるようになる。遅いので空いてるときだけにする。800メートルあたりになると泳ぎながら体から汗がにじ出るのがわかる。

    更新日:2009年2月3日コメントする(2)

  • パソコンがほしい(1998年4月|61歳)
    まさこ

    「「パソコンが欲しい」
    「家の中に2台のパソコンは要らない。買うな!」
    悪筆で文章も作ることも下手でパソコンで書けば少しは書きたいものができるかしらと 話をしてみると、即座に拒否された。「先ずキーボードの使い方、入力の仕方を覚えて毎日練習しなさい」 パソコンの前に座っても入力だけで面白くなく色々していると 「居ないときにさわるな壊れる」と言うので結局は何も出来ず、欲しい気持ちを持ったまま5年後、65歳(自分の名義で年金が入る)の時に私は相談せずにパソコンを買いすぐパソコン教室へ飛び込む。いつも会話がないのにますますひどくなり顔もそむけるようになる。
    この後は65歳からになります。

    更新日:2009年1月28日コメントする(4)

  • ある日の出来事 (2)(2000年8月14日|63歳)

    柵は垣根のような竹で作ったもので孫が帰ったあと直ぐに取り外してしまいました。

    柵がなくなり、私はいつもしていることで、犬のそばにより お手 をさせ かまっていたら、突然私の右腕を丸太を銜えるように咬まれてしまったのです。

    抜こうとしてもしっかりと銜えられはずせません。必死になり左腕を振り上げ叩くと、右腕ははずせましたが、左手の親指と人指し指の柔らいところを犬の歯が突き刺さり、引っ張ると破れてしまうのでそーと抜き、急いで家に入り

    電話で救急車を呼び、水道で傷口を洗い、使っていないマスクをあて、救急車が家の近くに来ると犬が興奮して吠えるので少し離れたところで待ち病院に行きました。

    医師は私の咬まれた腕を見て「ひどい」と言い直ぐに綺麗に消毒して傷口を縫いました。

    手術台の上で急に気が緩み、私は 「他の人が咬まれなくて良かった」 と号泣してしまったのです。

    傷口は汚く9箇所もありました。急所は外れていたので出血は少なかったのですが、家にいなかった夫は病院に来て、
    「いったい何をしたのか」と怒るので大きな声で怒鳴り返すと、周りを見回し それ以上何もいいませんでした。

    傷口が塞ぐには長いことかかりました。
    今は大きな傷口はまだ残っていますが、小さいのはもう綺麗に直っています。
    柵はしっかりしたものを作り直しました。

    更新日:2009年12月3日コメントする(5)

  • ある日の出来事(2000年8月13日|63歳)

    夫は、犬・猫の大好きな人で弱愛するほうでした。犬は小さい頃から飼っていました。朝晩散歩によく連れ歩き可愛がっていましたが、何時も先頭に歩かせ よく吠える犬でした。

    他の犬が怖がっていると喜んでいました。中型犬でがっちりした犬でしたが、私は、小さい頃は可愛かったのですが、怖くなってきました。

    小さい怪我ですが時々咬まれました。他人が咬まれないようにといつもハラハラしていました。

    私が気をつけるよう忠告するのですが聞き入れません。
    首輪はゆるく巻き、スポット抜ける。体を包めるしっかりした首輪をつけるように頼んでもだめです。

    孫が遊ぶにきたときは危ないからと犬小屋の周りを柵をするように頼むと作りましたが、簡単に飛び越せる柵でしたので首輪はしっかりとつけるようにしました。

    あまりにも甘い考えをしていて犬の躾が出来ていません。
    ある日、犬の調教師に家に来てもらいました。調教師が来たばかりのときは私はいませんでした。買い物から帰り、家の近くに来ると激しく唸る声が聞こえるのです。

    門扉を開け犬を見ると肘からの手の腕をくわえているのです。気が動転しました。

    目はピカピカとひかり 唸っています。犬の目が光るのを見るのは初めてです。腰が抜けるかと思いました。

    手を銜えているのに周りは血が流れていないので不思議だなと思いよく見ると義手でした。

    調教師の方に大変な思いをさせてしまい、今でも申し訳なくおもっています。
    調教師はもう手遅れで直せないと言って帰っていきました。

    更新日:2009年12月3日コメントする(1)

  • 旅行(2000年11月21日|63歳)

    犬に咬まれてから私自身精神的に落ち着かない状態が続いていました。
    1年に2回、夫と二人で娘のいるシアトルに出かけていましたが、一緒に行動するのが嫌で、私一人で11月21日から12月6日予定でシアトルへ行きました。


    娘はキャリアウーマンとして忙しく毎日を過ごし、今まであまり旅行はしていません。2泊3日、二人でラスベガスへ行くことになりました。娘と二人だけの旅行は初めてです。


    ホテル代や飛行機代は早くから予約をすれば安い代金でいかれますが、忙しい娘なので高くても行かれるときに行かなくては旅行はなかなか出来ません。

    ラスベガスには娘は仕事でよく行くところですが、当時話題になっていた、ホテルのショーのチケットが購入できたので一緒に行くことになりました。
    英語も楽に話せるのでの安心して娘について行きました。


    泊まるホテルは、BELLAGIO ホテルです。飛行機代、ホテル代、チケット代は結構な金額でしたが、全て娘が出していました。私のために使うことを喜んでいるようでした。悪い、悪いと思いながらすっかり娘に甘えてしまいました。


    ホテルに入った時、まず目立ったことは華やかな天井です。手吹きガラスによる、たくさんのカラフルな花があるのです。(後で調べてみると、世界的に有名な芸術家であるデイル・チフリーが表現した独創的な作品)あまりにも綺麗なので上ばかり見ていました。見事な BELLAGIO ホテルのロビーです。


    ショーは、当時新しく出来たばかりの舞台装置だったのでしょうか話題になった、シルクドウソレイユの 「O」 でした。

    超現実的なロマンチックな芸術、舞台の中に湖が出来ていて、世界各国から来た一流のアクロバット演技者、シンクロナイズドスイマーによる演技です。

    舞台の中は大量の水がありアチコチ飛びちり、娘が遅くチケットを買ったのにいい席があいていたのは一番前の真ん中の席でした。
    座っていてチケットが残っていたわけが判りました。飛び散った水を浴びるところでした。
    大量に浴びるほどでなく顔が濡れる程度でしたが、顔を拭いていると舞台の演技者の中にニヤと笑っている人がいました。


    湖が深いのか高飛びの演技をしたり白鳥のシンクロをしたり、又湖が消えてアクロバットやサーカスのような事をしたりして舞台装置の壮大さに驚きました。一番前で見ていてよかったことは演技者の素晴らしいコスチュームを近くで見る事が出来たことでした。


    ベラージオ(BELLAGIO)はホテルの前に、水、音楽、色で変化し楽しく面白い噴水がありました。
    他にミラージュ(THE MIRAGE)では高さ16mから落ちる滝、そして大爆発「火山噴火」にステージが変わるショーを見たり、またホワイトタイガーショーやマジックショーを見たり、スロットマシンもしてラスベガスを堪能しました。


    2泊3日は瞬く間に過ぎました。次の日は、朝早く起きて8時の飛行機に乗るつもりでしたが、娘が午後8時のチケットを午前8時と見間違え乗れません。午後から会社に行く予定だったので、早めに飛行場についていたので交渉して、スタンドバイでチャンセルを待っていたら、30分も早い7時30発のWN1116便に乗る人が二人いなかったため、チケットをかえることが出来、午前中にシアトルタコマ飛行場に着きホットしました。







    更新日:2009年6月8日コメントする(0)

  • 飼い猫の死(2000年3月8日|63歳)
    まさこ

    19年前から飼っていた猫(マリー)が午後2時になくなる。

    白黒のぶち猫で、鼻の上は白粉を塗ったように縦に白く、気品のある猫(雑種)であった。

    帰国してから、もういないだろうと思っていたら帰ってきたのです。
    白い毛並みは薄茶色になり、目は吊上がり大きな鳴き声で外から呼ぶのでした。
    私たちがアメリカにいる頃は近所の人に迷惑をかけたと思うが、野良猫状態であっても 5年間たくましく生きのびてきた。
    家の中に入れると暫くすると元の毛並に戻り、いつも縁側の窓際で外を見ていて、いつもの日常生活に戻りるのでした。
    一匹の黒猫がマリーが窓際にいないと窓の外から窓枠の桟に手をかけて立っている状態で左右に首を動かしマリーをキョロキョロと探すのでした(私がそばにいるのに気にしていない)どうも喧嘩相手のようだった。
    マリーは不妊手術をしているので、相手は雄か雌かは判らなかったが、窓ガラス越しに、2匹でギャアーギャー鳴いていた情景がいつまでも印象深く想い出として残っている。


    まさこの作品Ⅲ

    更新日:2009年3月6日コメントする(2)

  • ハワイ旅行(2001年3月1日|64歳)

    2001年2月23日~3月5日までアメリカで過ごす。シアトル~ロスアンゼルス~ハワイへ


    3月1日
    アメリカに5年間住んでいる時はハワイは観光することが出来なかったが、やっと念願かなってオアフ島のホノルル国際空港に降り立つ。先ずレンタカーを借り、日本のスーパーマーケットのダイエーで今晩食べる食べ物を買った。ホテルで食事してその日は寝るだけ。


    3月2日
    朝早く レンタカーで海岸通りを走る。ダイヤモンドヘッドは小高い山 歩いて登れるが、時間がかかるので山の周りを一周する。

    それからポルネシア文化センター(Plynesian Cultural center)へ ここはモルモン教の敷地の中にあり教会の中を見学したり、そとではフラダンスなどの催しがあり結構楽しめる。

    ホテルに帰り途中、 ドール プランテェション(Dole Plantation) パイナップル畑に寄る。
    大きなパイナップルの絵の中に顔を入れて写真を撮る。
    ダイエーマーケットにより買い物。相撲で活躍した、小錦のような体つきの女性をよく見かける。男性はアロハシャツ 女性はムームーがよく似合う。


    3月3日
    午前中 USSミズリー アリゾナ メモリアルを見学
    日本軍の真珠湾攻撃で亡くなった兵士のメモリアルである。

    次はイオラニ宮殿 アメリカ合衆国の雄一の宮殿、1880年ハワイ王国の第7代カラカウア王によって建てられた。歴史の重みを感じる重厚な造りである。

    そのあとワイキキの海岸で休み ショッピングをしてレンタカーを返す。
    3月4日ホテルからシャトルバスで空港へ 3月5日午後1時成田に着く。





    更新日:2009年7月13日コメントする(0)

  • 52回札幌雪祭り(2001年2月3日|64歳)

    アメリカで知り合った彫刻家アートさんから、アメリカ合衆国で選ばれて、代表数人と札幌雪祭りに参加することになったので札幌でお会いしたいとの連絡を受け、急いで松本空港から千歳空港行きの飛行機のチケットを2枚買った。札幌雪祭りは以前から行きたいと思っていたのでいい機会だと思った。雪祭りは2月6日からであるがアートさんは雪像を作るため早くから来ていた。


    住んでいる佐久市から松本空港まで自家用車で行き峠を越して松本空港まで約1時間30分かかった。自動車は空港に駐車して帰るまで預かってくれる。
    飛行機はMD87便レインボウーB777 松本空港 14:55分発~千歳空港 16:20分着。


    松本空港を飛行機が飛び上がった時に窓外を見るとアルプスの雪山を上から見下ろすように眺められ 素晴らしい景観に感激した。
    すぐに雪山は遠ざかり、約1時間30分ほど北海道千歳空港に着いた。空港から列車で札幌へ行き6時半に宿泊所第1ホテル無事に着く。


    4日~6日の間、あちこち見学する。有名な建物を模写した大きな雪像は自衛隊の人たちが作ったとの事みごとである、その他多く雪像を見て歩く。足元が滑りやすい。テレビ塔に上がると大通り公園の雪祭り全体が見渡せた。その他植物園、道庁、時計台、真駒内の雪像も観光した。

    厚生年金会館に泊まっているアートさんに会って話をする。芸術家との風格が出てきている。懐かしかった。


    7日千歳空港から松本へ~長野はお天気が悪く松本空港へ何回も着陸を試みるが降りられず東京の羽田空港で降りる。機内で帰りのチケット代を貰う。
    翌日、佐久の家から松本空港まで自家用車を取りに行く、佐久平駅から長野駅へ新幹線で行き、松本空港行のバスに乗り継で行った。そして自動車で家に帰る。朝、家を出てやっと夕方に着き一日がかりだった。

    もう松本空港の飛行機は利用するまいと思った。

    更新日:2009年6月17日コメントする(0)

  • 平成12年のお正月(2001年1月4日|64歳)

    孫達とお正月を家で迎える。娘が嫁いだ先は一人息子と結婚したので両親と一緒に暮らしている。一年おきにお正月をお互いの家ですることになっている。結婚が決まった時に別居してもよいと言われたが、娘はいつかは一緒に暮らさなければならないので同居でいいと同意して結婚した。


    夫が定年退職した年、私は59歳の時で、初孫である。よく動き、よく笑い、よくおしゃべりをする元気な孫で本当に可愛いい。自分の子育ては無我夢中で育て、孫は少し離れたところから見ているので、我が家に来たときは怪我だけを気をつけていればいいので気が楽である。


    1月4日、朝早く目が覚め、庭に出ると犬が庭に放し飼いになっていたので驚く、あんなに庭には放し飼いにしないように言っているのに、
    いつも私が遅く起きるで、こっそりと放し飼いにしていたらしい。
    丁度、孫達が来ているときで、ウッカリ玄関のドアを開け孫が出てきたらどうなっていただろう。


    わたしが噛み付かれた時の恐怖心が蘇り、恐ろしくなった。
    思わず大きな声で(頭の上から出てくるような甲高い声だった思う)喚いた。
    まだ寝ていた娘達も起きてきて「どうしたの」聞かれたが、
    私自身どうなったのかと思った。体が震え、声はうわずって、どうしようもない。


    犬は直ぐに鎖に繋がれたが、気がおかしくなったかと思い、朝早く朝食もとらず病院へ行く。
    病院は朝早いので誰も居ない。どこの診療を受ければいいのかわからないので総合診療の前の椅子に座り待っていた。
    受付が始まり診察を受ける内容を書くように紙を渡されたが、字が書けないのです。
    手が震え、紙が挟まれているボードにカタカタと叩くのみで、暫くしてからどうにか書き終わるがまともに読める字になっていない。


    診察は朝早く来たので1番で呼ばれる。医師の前で話をすると、
    「確かに貴方の今の精神状態は興奮して異常な状態であるが、それをおさえる薬はあるが僕はその薬をあげたくない。病院に来るのに誰かと一緒にきましたか」
    私は「一人で自動車を運転してきた」と言うと、
    「一人で運転してきたのだったら問題ない。来る場所を間違えている。帰りに保健所に寄り相談しなさい」


    病院の帰りに保健所に寄り相談して家に帰る。







    更新日:2009年6月16日コメントする(2)

  • 60歳からの出発(1997年1月8日|60歳)

    「私も定年退職をしたい」と夫に言うと吃驚していました。夫と私は1歳違い、同じ時代を過ごしてきました。
    結婚した当初は共稼ぎでしたが、子どもが出来たら女性がやめることが当然の時代でした。家事の仕事、子育てに夢中で過ごしてきました。


    夫婦の会話がほとんどないので、結婚当初から子育てが終わり二人だけの生活になったらどうなるかと私は気にかけていました。

    60歳を過ぎると少しは会話が出来るかと期待しましたが、「ほとんどの夫婦は会話などない」と断言するのでした。話をすることが好きな人ですが、勝手にしゃべり、人を楽しくさせていると思っている人でした。


    夫の考えや決めたことは正しいことで当然妻も同感でありついて来るものと当然のように思っている人でした。私自身は劣等意識の強い人間でした。何をしても自信がなく落ち込むタイプでした。結婚してから夫中心の生活であまり逆らったことはありませんでした。


    私が60歳になる1年前に夫が定年退職をしても今までの生活状態が続いていました。ご主人様と使用人の上下関係です。
    夫婦の会話は出来ないとあきらめたので、私は、これからの人生少しは楽しく過ごしたいと思い、家の中の家事のことはお互いに役割を決め自分の時間を作ること、趣味を生かし楽しむことなど一人でだいたいの事は考えていました。

    私なりに戦いました。自分の考えを主張することは感情も高ぶり涙を流して伝えたこともありました。
    夫はびっくりして「お前がそのような考えをしているとは知らなかった」と言って理解してくれましたが、全て私の考えどおりにはなりませんでしたが自分の時間がもてるようになりました。

    更新日:2009年4月28日コメントする(3)

  • 60歳の誕生日(1997年10月1日|60歳)
    まさこ

    私の60歳の誕生日に東京・長野新幹線が開通しました。誕生日の記念に東京行きの特急券・乗車券を早めに購入して夫と二人で新幹線に乗りました。速い、速い、今までの信越線の半分の時間短縮です。

    来年は長野で冬季オリンピックが開催するので長野新幹線は最優先で工事をして、もうすでに高速道路も開通していてオリンピック誘致の効果は抜群でした。

    夫は羽田空港がきれいになったので見に行きたいとの事で、東京駅から浜松町に行きモノレールに乗車し空港に行きました。羽田空港は久しぶりです。
    飛行機の見えるレストランで食事をして空港内を見学して浜松町に戻り、世界貿易センタービルの40階展望台(シーサイド・トップ)にあがりました。
    その日はお天気が良かったのでキラキラ光る東京の夜景を見渡せて、今日の私の誕生日を祝福しているかのようにおもえました。

    また、帰りの駅では使用済みの特急券・乗車券の切符をもらい記念に今でも大切に保管してあります。

    更新日:2009年4月24日コメントする(0)

  • 作品作り(1999年5月1日|62歳)
    まさこ

    ステンドグラスで作品作りを始めましたが、小さいものでも簡単には出来ません。作る手順を書いてみます。


    1.作るものを決めて紙で型紙をつくる(殆ど出来上がったデザインを使う)。


    2、鋏で切ったデザインの紙をステンドグラスの上に乗せ、マジックペンでガラスに書く。書いた線の上をガラスカッターで切る。カーブしているデザインは何回も少しずつカットする。切ったガラスの周りはステンドグラスを削るグラインダーで綺麗に磨く(時間がかかる)グラインダーを使わず上手にカットする人もいる。


    3、削ったガラスの周りを銅テープで巻く。写真にある作品はパネルといい、最初に書いたデザインの紙の上に並べ半田コテで溶けたハンダをつけて繋ぎ合わせる。ハンダ付けが私には難しくいまだに苦労している。


    4、繋ぎ合わせた作品を軽くお湯で洗い拭き、ブラックパティーナーを小さい布にしみこませハンダが付いているところを塗ると黒くなる。ワックスをつけ光らせる。
    そして出来上がります。


    一人で作っているので工房も小さく、人に教える技量もないので、ここでラジオを聞きながら作業していますが、殆どの作品は親戚や友達の新築祝い、結婚式のお祝いにさしあげているので手元にあるのは大きな作品のみで、お雛様は最近作ったものです。


    「Welcome to まさこの窓」のHPの中に趣味として私の作品を載せていますので良かったら覗いてください。この題名で検索すると すぐ出てきます。

    更新日:2009年2月27日コメントする(2)

  • 趣味(1999年1月|62歳)
    まさこ

    1987年から5年間アメリカで過ごし、趣味としてステンドグラスでランプ作りを習う。一通り習い終わった頃日本に帰ることになったが、日本ではまだステンドグラスでランプなど作る人はあまりいなく、どこで材料を売っているところなどわからなく長いこと作らないでいた。
    60歳過ぎた頃、新聞でランプやその他の手芸品を展示している場所が家から近くだったので、急いで見に行き、作っている人に会い、それから自宅の広縁の片隅に3畳ほどの私の工房を作り、久しぶりにランプ作りをはじめ、アメリカで作った作品と一緒に並べました。

    ステンドグラス作品(雛祭りが近づいたので私のオリジナル作品です)

    更新日:2009年2月12日コメントする(2)