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  • 村、家族、別れ(1975年3月14日|7歳)

    この村で十歳まで過ごした。 [鳥取県日野郡溝口町福居] あれから数十年経つが、今でもなんとも寂しい村である。特に仕事の関係で海外へ行ってからは年に一度この地を訪れるようになった。何をするわけでもない。ただ屋敷を眺めるだけである。まるで、かつて暮らしたこの屋敷の亡霊が私を呼び寄せているかのようだ。思い起こせば、さまざまな情念が交差し、湧水のごとく溢れてはまた土壌に消えてはいったが、それがどういったものなかは靄がかかったように鮮明には思いだせない。この靄のおかげでなんとかここまでやってこれたような気がする。 生家は一軒家で、大通りから一本枝をとって脇へ入り、二十メートルほど下り方向へ進んで小川の橋を渡り、さらに奥へ百メートルばかり進んだ突き当りに位置していた。このような孤立した立地はこの集落では他にも何軒かはあったが、この家だけ何か他とは違う違和感のような感覚を覚えていた。この小川の橋は、今でこそコンクリートの頑丈な橋が架かってはいるが、あの当時は耕運機だけが無事に渡れば問題なかっただけの橋であった。父が豚の運搬で強度のある橋が必要になり、電信柱の廃木をどこからか算段して自力で作り上げた。今でも父が作業している様子をボンヤリとおぼえているが、たいした男である。 家はかなり古く、すでに筑三十年を超えていただろうか。離れには扉のぶ厚い蔵が建っており、その横に耕運機や脱穀機を保管している二階建ての長屋と、五右衛門風呂と称した方がいいのか、真木で風呂釜を焚きあげるタイプの風呂家が隣接していた。もっぱら小学校から帰宅した後の私の仕事は風呂焚きであった。 家族は、又いとこ同士で結婚した両親、父は養子としてこの家に迎えられた。他に母方の盲目の祖父、そしてお手伝いで来ていた父方の伯母、兄弟は上に十歳と六歳違いの兄の七人家族であった。家業は兼業農家で、主に農家として米作り。父は刈り入れ時期でないときは郊外にある工場で働いていた。他に養豚のため、田をさら地にして豚小屋を建設し、二~三十頭の豚を飼育。他に牛が四頭いて、牛舎は母屋の玄関を入ってすぐ右側にあった。牛舎が母屋の一つ屋根の下にあるのは珍しいのかもしれない。なぜこのような造りなのかは特に聞いたことはないが、それだけ大切なものだったと勝手に解釈している。 決して裕福ではなかったように思うが、ここの集落ではごく普通の生活であった。 あの当時の長男は高校生で、根雨までバイクで通学。次男は中学生で、溝口まで自転車通学(冬季は寄宿舎に入寮)。二人はスポーツが得意で、ともに陸上部に所属し、特に二男は中学あたりから頭角を現すほど良くできた。父も足腰の丈夫な男であったのでその血をひいているのかもしれない。 小生はまだ小学生で二部まで約2キロの道のりを歩いて通学していた。当時の私は小児喘息の持病があり、跳んだり跳ねたりといった運動はできず、学校近くの診療所通いが多く、発作を抑える吸入器を手放したことがなかった。(後、十歳頃に自然治癒) 一家に転機が訪れたのは私が小学ニ年の頃だっただろうか、突然母が家を出たのである。以前から口論が絶えず、時には父が手を上げることもあったが、まさかテレビドラマの世界が我が家に展開するとは夢にも思わなかった。

    更新日:2009年4月13日コメントする(0)