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  • 帝王学開始(1968年3月21日|23歳)
    kimio

    マキャべリズムとか経営学に関する関心が高まっていた時期で、ご多分にもれず親の指示で他人の飯の後は各地の関係事業所を働きながら回った。北から始めたが北海道に一年すべての事業所と夜の単独行動と並行して昼に夜に人生経験を積んだ薄野の交差点をミニスカートで歩くホステスに驚愕し
    道内に夜の蝶の知り合いもできた、もちろん給与は100%遊びに使った。転入届を役所に出しに行ったら「市内の移動か?地方からの移動か?」と聞かれ「いいえ、地方に来ました」と言ったらプライドが傷ついた顔された、ここは別の国とわかった、そう云えば東京は内地にある。酒とコメはまずいがホスピタリティーとウィスキー、ビール、農産物、海産物は豊かで、食と色は満たされた。そのぶん文化に飢えてFENを聞きかじってた(東京と同じ放送が聞けた)

    更新日:2010年3月12日コメントする(0)

  • 就職(1967年4月|22歳)
    kimio

    金融機関が人気だったけど、成績証明見たら可が一科目、良が三科目で、オール優又は一科目のみ良にはずれそうなのでやめにして、人生一度の新卒で就職であるから1.女子社員が多い。2.大手町など飲食店も多い都心であること。3.給与がよいなど考えて合宿でTVを見てたらシルビーバルタンの魅力に参って同席のマネージャーに”こういう会社でなければ”と伝えたら受験手続きしたので受けたら我が校からは一人だけ受かった。腰かけではあったけど、不眠不休、仕事も遊びも一生懸命した。キャアリヤーの待遇には不公平感を持ったけど、じきに慣れてしまった。取引先とのコミットメントに対する責任を教わった。反面、女漁りは更に頻繁になったが空しさも感じ一年で退社、帝王学を選択(他人のメシを食わせるというのも初めからあった)

    更新日:2010年3月5日コメントする(0)

  • アイビーカレッジ入学(1964年4月|19歳)
    kimio

    社長の息子で、胸に日の丸のブレザー着れるスポーツ選手で、優等生、付属大学への推薦入学をけってプレイボーイで知られる池袋の大学へ。当時は世をあげ東京オリンピック、国際化を目指して社会がどんどん変わった、イタリアから招聘したナショナルコーチも根性から科学的トレーニングを教えていたが、”酒と女と煙草は男を灰にする”という諺は守らず高校時代のスキースケート場のナンパの場所がダンスパーティーや銀座のバーとかジャズ喫茶に変わっただけだった。そのせいか三年間、月の半分を強化合宿で過ごしたが本番のオリンピックには出られず。惰性で国体などは出てたけど毎年開催地で彼女を作るだけだった。

    更新日:2010年2月28日コメントする(0)

  • 西独ローレライで独逸航空のスッチーと(1962年8月|17歳)
    kimio

    胸に日の丸のブレザー着てヨーロッパ遠征。マリリンモンローの死亡写真記事に驚いた。遠征チームから逃亡してヨーロッパで生活したかった。十代の
    欧州白人女性は美しく豊かであったからかな。海外旅行はできない時代だった。英語で女の子に話しかけると堂々と答えたのに驚いた、大和撫子は知らない人とは口をきかなかったから。日本人女性がミスユニバースに入賞して誇りに思った。1958年売春禁止法が出来たが世界の都市ではその産業は盛んでハンブルグは飾り窓で有名だったがテレフォンクラブが脚光を浴びた。文化でも豊かさでもみすぼらしい日本だった。この月にヨーロッパで日本を見たのはヤシカのカメラとブルーバードの柿の種型一台だけだった。日本飯レストランもなかった。(日本人会が手作りしてたみたい、必ず領事館には立ち寄ってあいさつ、会話したが、町で日本人と会うことはまずない時代)革表紙に菊のご紋の箔押し黒インク手書きのパスポートで署名は外務大臣大平正芳だった。

    更新日:2010年2月27日コメントする(1)

  • 中高一貫教育の私学で青春(1957年4月|12歳)
    kimio

    6年間山手線を横断する通学路ゆえあちこち出入りした、高校の三年間は五輪候補選手として半分は強化合宿で公用欠席。体育、知育を受けエネルギーに満ち、輝いていた時分。昭和30年代のエクスプロージョンを身をもって体験、今でも言えないような事をしてた。外貨管理、渡航管理の時代に体験したヨーロッパは強い印象を受けた。

    更新日:2010年2月27日コメントする(0)

  • 小学時代は湘南ボーイ(1953年1月|8歳)
    kimio

    入学、卒業を除き6年間は下谷でおいたがすぎて、神奈川県茅ケ崎の別荘に女中と共同生活、明治生まれのこわい婆ちゃんがたまに監督役で滞在してた。学校にコンクリートの運動場がなく廊下は雑巾がけ、ボットン便所で驚いたが、温暖な気候、地引網のおこぼれの鯵の旨さ、茅ケ崎のシンボル烏帽子岩の真向かいに家があった、移住してきてた文化人に囲まれて育った、しかしクラスでたった一人の金槌の湘南ボーイだった。でも毎夜同衾する女中さんからは寝技を教わった、その意味はわからなかったけど、やわらかく、滑っぽく、安らいで安眠した。

    更新日:2010年2月26日コメントする(0)

  • 下谷小学校入学(1952年4月1日|7歳)
    kimio

    今は廃校となった、鉄筋の校舎、フローリングで拭き掃除のない床(リノリウムの床が出来る前)モダンだった。校門の裏には上野らしくパンパンがたむろし、駅の地下道は浮浪者で臭かった、家には風呂と裏庭があったけど夜は赤いネオンが映り、昼は三国人に虐められながらも浅草、本郷、広小路と遊びまくった。入学前は館山の囲い者の実家で育てられ、入学、卒業を除いて6年間茅ケ崎の別荘で明治生まれの婆ちゃんと女中に育てられた。小、中、高校の入学式で母親は見たが接触は少なく家長の影響が濃かった、お妾さんは3人覚えてるけど皆きれいで、いい匂いがした。


    更新日:2010年2月21日コメントする(0)